<海堂篇 8>
休憩時間の終わりは既に過ぎていたが、オケの座席はまばらに埋まっている。
思った以上に上手くいかない全体練習は、
早くも部員たちの緊張感を欠いた結果になってしまった。
こんな状態で再び指揮台に上がるのは、さぞかし大変なことだろうと危惧した千石は、
寿也が戻ると彼に歩み寄った。
「佐藤。無理しなくていいぞ。指揮者の話は無かったことにして、
今からどこかのパートで楽器を担当するところからはじめてもいい。」
もともと無茶な計画だったのだ。まだ一年である寿也にこれ以上負担をかけるのも憐れな気がして、
千石はやんわりと逃げ道を提案してくれた。
だが、寿也は首を振る。
「その前にもう一度やらせてもらえませんか?」
その瞳に強い決意が宿っている。
先ほどの失敗にめげるどころか、むしろ挑戦意欲に満ちている。
(たいしたもんだな)
思わず覚えた感心を顔には出さず、千石は短く返事をすると、部員全員に着席を呼びかけた。
迫力のある声が響き、再び静寂が戻った。
寿也は指揮台に上がった。
背筋を伸ばし、オーケストラを見渡す。
「先ほどは上手く出来ず、すみませんでした。もう一度、お願いします。」
顔を見合わせる者、ため息をつく者。音楽室にざわめきが広がる。
だが、己の未熟さを認め、それでも前に進もうとする寿也の姿勢は、部員たちの心を動かしたようだ。
コンサートマスターの生徒が大きくうなずき、楽器を構える。
それに従って、全員が演奏準備の体勢をとった。
壇上の寿也は大きく深呼吸した。
そして、臆することなくタクトを構えた。
気負うことなく、あくまでも堂々と。
やがて一瞬の間をおいて、冷たささえ感じる張り詰めた空気を斬る。
___吾郎君が・・・弾くように!!!
ゆっくりとでも確実にテンポをとると、それに伴って音の波がおおきくうねり、広がった。
時折スコアに目を落としながら、寿也はその動きに身を任せる。
__真っ直ぐで、ダイナミックで、そして・・・。
頭の中に、吾郎のイメージが浮かぶ。
自然と腕の振りに力がこもり、はっきりとした緩急が、演奏者たちにしっかりと伝わった。
威風堂々たる姿は、名門管弦学部を率いるに余りある風格を漂わせているようだ。
寿也は強く思った。
吾郎くんが奏でる音のように、僕自身がオケの一つ一つの音を繋げて見せよう。
僕が弾くんだ。
僕のピアノ。いや、僕の音楽を!!!
寿也の強い意志が、オケ全体に伝わった。
そして光り輝く一本の道となって、オーケストラを導いた。
…・・・・・・・・・・・・
「悪ぃ!やっと片付いたぜ・・・」
やっとのことで椅子と譜面台から開放された薬師寺が、
楽器ケースと共に眉村の元に戻ってきた。
渡り廊下の壁によりかかりおとなしく待っていた眉村がぼそりとつぶやく。
「腹が減った・・・。」
薬師寺も大きく頷いた。
ペットボトルに残っていたぬるいお茶を一気に飲み干すと、
かえって空腹感が増したのだ。
「同感だ。帰りに何か食って帰ろうぜ。」
「佐藤も誘うか?」
眉村の問いに、そうだな、と薬師寺は音楽室のドアを開け、
重たい扉の向こうを覗き込む。
しかしながら、様子を伺ったまま中に入ろうとしない。
やがて苦笑しながら振り返ると言った。
「・・・・・今日は無理じゃないのか?」
薬師寺が開いた扉の向こうを伺い見て、眉村も合点がいったようだ。
そしてなるほど、という顔で頷くと、二人は音楽室を後にして帰途についた。
閉められた扉の向こうに広がっていた光景。
それは・・・・・・。
全体練習はとうに終わったというのに、寿也の周りにはたくさんの人だかりができていた。
管楽器、弦楽器の主だった主軸の先輩メンバーが、次々と寿也に話しかけている。
まるでそこに大輪の花が咲いているようだった。
指揮者、佐藤寿也の誕生だった。
「はい。そうですね。ではこの部分は先輩のおっしゃるように表現してみます。」
次々に投げかけられる質問に、真摯に答えながら、寿也の表情が生き生きと輝いていた。
吾郎君、僕はここで音楽をやるよ。
君のピアノに、少しでも近づけるように。
そして、僕自身の音楽を生み出すために。
海堂高校管弦学部は、寿也の新たな居場所となった。
<続く>
2010年4月9日
back to novel menu