パラレルstory
< Bar Third 〜はじまりの雨〜 > 4
大
自分の部屋には帰りたくなかった。
シンガポール赴任から帰国しても、またすぐに大きなプロジェクトに参加して、
海外に行く筈だったから、とりあえず寝る場所があればいいと借りた部屋は
あまり広くもなく、殺風景だった。
だがそのプロジェクトが暗礁に乗り上げ、トップの方針も急に方向が変わったために、
眉村は全く別の仕事を任され、忙殺された。
仕事は好きだし、上司にも部下にも信頼もされている。
だが、友と呼べる友はなく、海外生活が長かったせいか、
東京の空気にも馴染めずにいたのだろう。
ストレスを感じたまま街を彷徨っていたとき、
仕事途中で巡り合った一軒の店に足が向いていた。
その店は出す酒も雰囲気もよかったから、時々仕事帰りに寄るようになった。
家とは全く反対方向だというのに。
眉村は思った。「Bar Third」に向かう自分は、店を訪れるというより、
まるで家路を急ぐような足取りだと。
海外赴任が決まった時、自分に好意をよせていた女性と結婚していたら、
帰る場所も違っただろうに、と自嘲する。
そんな自分に嫌な顔ひとつみせず、バーテンダーはいつも、心地よい空間を用意してくれた。
一人静かに飲みたいときはそっとしておいてくれるし、こちらの独り言は優しく聞いてくれる。
ほどよい距離感の中に、人としての魅力を感じて始めたとき、
いつしか自分は、店に来ているのではなく、彼に会いにきていることに気付いた。
そして、女性客の潤んだ眼差しを拒むことなく受け止める彼を見るたびに、
嫉妬に似た感情が自分の胸をチクリと刺していることに眉村は驚愕した。
誰かを独り占めにしたいなどと思ったことは一度もない。それも、あろうことか同性の相手を。
何か思い違いをしているのだと自分に言い聞かせ、
しばらく店には来ないことをバーテンダーに伝えても、
見送る笑顔はいつもと同じだった。彼にとって自分はただの一人の客でしかない。
そのことは思った以上に眉村の心を暗くした。
自分はただ寂しかっただけだと思い、それからは会社でのつきあいにもなるべく顔を出すようにした。
華やかな席はそれなりの楽しさを味わえたが、愚痴や噂話が飛び交う宴のあとは余計に、
あの店に行きたくなった。
半ばヤケになっていたのだろうか?
強引に飲ませる輩に乗せられて、いつもより酒量が多くなってしまったあの夜、
どこをどう通って来たのかもわからないのに、
気がつけば「Bar Third」の扉を開けたことだけは覚えていた。
彼にキスされた時、まだ酔って夢をみているだけだと思ったのだ。
自分はこうなることを望んでいたのかと。
それなのに、夢が現実だと知った時、恐れと羞恥が眉村を襲い、彼に手を上げてしまっていた。
それでも。
逃げるようにその場を去ってからも、あの温かな手と、
熱っぽい唇の感覚はいつまでも忘れられなかった。
だからもう一度会おうと思った。
この感情が何なのか、もうわかっているけれど。
残業で疲れきった体をそのままタクシーにのせ、深夜の都会から逃げ出した。
途中降り出した雨は、時と共に激しくなった。
閉店時間を過ぎていても、外の丸窓から明かりが見えたので、
眉村は二階へと続く螺旋階段を静かに上った。
割れたグラスを捨てるために外に出ようとしていた薬師寺が扉を開けた時、
あの日と同じように雨に濡れた眉村がそこに立っていた。
「な、なんで・・・・」
驚きのあまり、そのあとの言葉が続かない薬師寺に、眉村は、会いたいと思った、と言った。
その瞳にゆらめく光は、言葉を必要としなかった。
眉村の後ろで、店の扉が閉まると、薬師寺はありったけの力で彼を抱き締めた。
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「ドライすぎるんじゃないのか。」
「やっぱりそうか・・・。」
カウンターのいつもの席に座り、眉村は薬師寺の作ったマティーニを一口飲むと言った。
薬師寺は少し考えてから、もう一度ミキシンググラスに氷を入れ始めた。
美しい一連の動きを、眉村はただ黙って見ていた。
そして再び、目の前に静かに置かれたショートカクテルグラス。
見た目は先ほどと何も変わらない。
だが、それに口をつけた眉村が満足そうに微笑んだ。
____好きな味だ。
ホッとした顔の薬師寺に、飲んでみろというように、そのグラスを差し出した。
眉村の手にあるグラスは、そのままカウンターに身を乗り出した薬師寺の唇に触れた。
彼がそれをを傾けると同時に、苦味の中に、ほんのりと甘みが現れ、
芳しい香りが鼻腔をくすぐる。
薬師寺はゆっくりとマティーニを味わうと、
____俺も・・・・好きだな。
そう言って、グラスごと眉村の手を両手で包む。
やがて、口付けを交わす音だけが聞こえる。
それはどこか、やさしい雨音に、似ていた。
<END>
この二人のお話はずっと描いていたいな・・・。
真に僭越ながらこのお話を憧れのU様へ捧げます。
U様のお言葉で、書くことができました。ありがとうございました!
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