SSサクラシリーズ 2010バージョン
<咲き誇るその前に>
薬師寺は眉村に誘われて夜の公園を歩いていた。
滑り台と小さなブランコが二つあるだけの小さな憩いの広場。
砂利道を少し奥に入ると桜の大木が一本ある。
そこは、二人が多忙なスケジュールの合間を縫って、
夜分にひっそりと逢える密かな場所だった。
春一番は吹いた。開花宣言がされてしばらく経つ。
だがにわかに舞い戻った冬のような寒さに、
桜の蕾は時が止まったような有様だ。
薬師寺は不満顔で言った。
「まだ半分しか咲いてねえな。」
満開ならば、足元まで延びたいくつもの枝が、
見事な桜色に染まるはずなのだ。
しかし目の前にある枝は、
申し訳程度の花がいくつか開いたまま、蕾ばかりが目立っていた。
ペナントレースは開幕した。
また、走り抜ける季節が来た。
目の前には横浜のエースが静かに佇んでいる。
残念ながら開幕試合は勝ち星がつかなかったが、
堂々たるピッチングは今シーズンも健在だ。
「仕方ないだろう?俺もお前もこっちにいられる日は今日しかない。」
確かにこの先遠征が続く日程が重なる。
次に会う頃には桜も散っていることだろう。
「だいたい、毎年桜を見たいと言ってきかないのはどこのどいつだ。」
「今日は違うだろ?」
確かに、二人で花が見たいと強引に誘うのはいつも薬師寺だった。
それが今年はどういうわけか、早い段階で眉村から言い出したのだ。
薬師寺はその理由がなんとなくわかる気がして、気乗りがしなかった。
「俺は・・・散り際の儚いかんじの桜が好きなんだ。
まだ蕾の残る枝じゃ、あの風情は感じられねぇ。」
おまけにこの寒さだ。
春とは思えない冷たい風が、薬師寺の髪をなでつける。
「寒いからもう帰ろうぜ。お前との花見、今年はあきらめる。」
「・・・我侭だな。」
「うるせ。」
薄手のコートの襟を立て、薬師寺は眉村に背を向けた。
胸の内で、愛する恋人が世界へとはばたく日が近づいていることを、
はっきりと感じていた。
枝ばかり目立つ木を見上げ、彼と歩んできた日々に思いを馳せる。
(いよいよ・・FAか・・・)
薬師寺は元来た道を行こうと歩き出す。
すると背中越しに声が聞こえた。
「もう少しここにいてくれないか?」
「肩、冷えるぜ。」
「いいんだ。」
「よくねえよ。」
「話しておきたい事が・・・」
眉村が何か言いかけたその時、強い風が吹いた。
まだ冬の名残りの残る、冷たい突風だった。
だが、気丈な桜は舞い散ることなく、その枝から離れない。
薬師寺が砂ぼこりを避けて反射的に閉じた目を開くと、
外灯に照らされた薄紅色の蕾と小さな花たちが、悠然と風に揺れていた。
夜空に映えるこれから咲くはずの蕾。
いずれ、満開に咲き誇るであろう花。
力強いその姿を見て薬師寺は呟いた。
「まるで・・・お前みたいだな。」
眉村の表情が一瞬強張る。
「五分咲きもこうしてみるとなかなかいいもんだ。
未来あるメジャーリーガーに相応しい。」
薬師寺が屈託なく笑うので、
眉村は少し拍子抜けしたようにため息をつく。
そして、今シーズン限りで日本球界を離れる覚悟を口にしたのだった。
「そうか。」
薬師寺は驚くことなく答えた。
眉村は小さく笑った。
「わざわざ報告する必要は無かったようだな。」
「当たり前だ。俺を誰だと思ってる。」
茶化したつもりだった。
だが眉村に冗談は通じない。
「たった一人の大切な存在だ。」
いつでも真っ正直な恋人は顔色をかえずに言い放つ。
「全く・・・・そんなこと言うとキスするぞ。」
苦々しい顔をして薬師寺は眉村に近づいた。
ふざけ半分で言ったのに、彼は動じない。
「どうした。しないのか。」
抱き寄せようとした薬師寺の腕は相手の肩に軽く置かれただけだった。
小さな公園に人影は無い。
寒空の下、まだ咲かぬ花を見にくる物好きはいないようだ。
それでも、薬師寺は力なく笑う。
「それくらいの分別はつく歳になったからな。」
冗談ぽく言ってごまかした。
眉村がどれほどメジャーリーグに憧れているかを知っていた。
その日が来たら、笑顔で送り出すつもりだ。
だが、この先日本で共に桜を見ることは無いという事実は、
思った以上に薬師寺の心を暗くした。
今彼を抱き締めたら、きっと感傷的になってしまう。
そんな自分が腹立たしかった。
それでも、この男と二人で生きてゆくことを決めたのだ。
心を奮い立たせ、薬師寺は拳をにぎりしめる。
そして眉村の胸を軽く叩きエールを送る。
「まずは、今シーズンちゃんと怪我なく戦えよ!」
「わかっている。だからこそ、お前と桜を見ておきたかったんだ。」
眉村の表情は柔らかい。
まっすぐな愛情に心が震える。
結局薬師寺は、彼を抱き締めずにはいられなかった。
ゆっくりと二の腕で愛する男を包み、
降参したと言わんばかりに空を仰ぐ。
「その顔は反則だ。俺が行くなって言ったらどうするんだ?」
「お前は言わない。」
「・・・馬鹿野郎。」
薬師寺は眉村の短い髪をくしゃくしゃっと撫でた。
「だが、向こうで野球を続けて行く限り・・・」
ふと、自分の肩に顔をうずめた恋人が弱弱しくつぶやいた。
「桜の季節を、一緒に過ごすことはできなくなる。」
眉村の意外な言葉に、薬師寺は思わずその顔を覗き込む。
どこまでも強く美しい瞳には、切ない色が滲んでいた。
薬師寺は唇を噛み締める。
「仕方・・・ないだろ・・・。」
強がってみせたが、本当は彼が同じように感じてくれていたことが何よりも嬉しかった。
すると、薬師寺を捉える眉村の視線が緩んだ。
「ああ。それだけが、心残りだ。」
自信と覚悟、そして畏れと寂しさ。
すべての感情を曝け出し、眉村は薬師寺の背中に腕を回す。
そして瞳を伏せ、ゆっくりと顔を近づけると、
自ら恋人に口付けを授けたのだった。
静かに与えられた唇に、薬師寺は深く激しいキスを返した。
ありったけの想いをこめて抱き締めながら、
何度も何度も熱を交わした。
時折漏れる甘い吐息が、冷たい空気に溶けてゆく。
_____今夜の桜を、忘れないから。
だから今ひと時、やがて訪れる別れを惜しむことにしよう。
桜が繋いできてくれた愛が、
この先もずっと咲き誇り続けることに涙して。
<終>
2010年4月15日
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