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 野球をはじめてからずっと、ライバル、と見据えた投手はいなかった。眉村にとって、己の超えるべきものはすべて己の内にあった。

 だが。

 茂野吾郎。 かつて自分の背中を追い、いつの間にか肩を並べ、そして一歩先に世界の頂点へと上り詰めた男。
国際試合で共に戦い、その後の活躍を耳にしてきた同期ピッチャーのことだけは、少なからず意識してきた。その彼が遂にその投手生命をあきらめるかもしれないという事実は衝撃的だった。まるで、一つの時代が終わってしまうかのようだ。

「それほどまでに・・・茂野は・・・。」

 投げられなくなるその苦しみを、今の自分には想像することしかできない。いや、正直想像することすら困難だ。どう受け止めたらいい。いや、深く考えるべきではないのだろうか?眉村は恐れと迷いに支配されそうになり、目を閉じることしかできなかった。
すると、ふいに薬師寺の声が鋭くなる。

「眉村!」

と、同時に彼の大きな左手が軽く背中を叩いた。

「大丈夫だ。いつもどおり投げろ。」

 はっきりと断言する力強い言葉。それは高校時代、マウンドに駆け寄ってきた三塁手の声だった。あれから十年以上たつというのに、かつて何度か助けられた時と同様、眉村は反射的に大きく深呼吸する。すると不思議なことに、さきほどまでの暗い緊張から解き放たれたのだった。眉村は軽く声を上げて笑い、薬師寺を睨む。

「悪ふざけはよせ。」

「気の効いた冗談にしてはイイ出来だと思うが?」

 ニヤリと笑うその顔は昔と変わらない。薬師寺にはいつも、眉村の心の中にするりと入り込み、包み込んでしまう力があった。相変わらずだな、とつぶやき、彼が未だ自分を見つめる視線を受け止める。その思うところを汲んだ眉村は、切れ長の目を細めて言った。

「そんな顔で見るな。俺は大丈夫だ。まだまだサイヤング賞も狙ってる。」

「はは。それでこそ眉村だ。」

 心から安堵した顔になった薬師寺が、二杯目のモルトを口にする。すこし伏せた目にかかる黒髪が、ふわりと揺れる。端正な横顔を見つめながら、眉村はずっと胸にしまっていた問いを口にした。本当は聞かずにすまそうと思っていたのだが、茂野の話を聞いた今、知らぬふりはできなかった。

「お前こそどうなんだ。膝の調子がよくない、と・・・。」

 一瞬ひどく驚いた顔をした薬師寺は、すぐに落ち着いた口調で答えを返してきた。

「悪くはない。が。」

「・・・。」

「良くもないぜ。」

「大丈夫なのか。」

「なんだよ、よく知ってるじゃねぇか。」

 薬師寺の乾いた笑いとともに、カラン、と氷の音がした。

「何年プロやってんだよ。心配すんな。どんな結果になっても後悔しないよう、常に最善を尽くしてる。」

 まぁいつもお前が言ってることの受け売りだけど、と苦笑し、薬師寺の瞳は遠くを見つめた。

「茂野も・・・きっとそうだろう。」

「・・・・ああ。」

「だから、なんとかなるさ。」

「そうだな。」

 二人は黙ったままそれぞれのグラスを飲み干した。それ以上言葉を交わさなくとも、各々が友の再起を切に願っていた。そしてやはり、この先の自分たちについても想いを馳せる。眉村は隣に座る男の名を呼んだ。

「薬師寺」

「あ?」

彼は目の前にある酒棚のボトルを物色しながらの生返事だった。

「さっき、俺だったら、と言ってたのは本気か?」

 薬師寺は、聞いていたのかよ、とバツの悪そうな顔をして頭を掻いている。眉村がじっと見つめると、彼は観念したように言った。

「ああ。本気さ。俺が打てなくなる日と、お前が投げられなくなる日。どちらが早いかわからないが・・・。」

 そして迷うことなくはっきり言葉を発した。

「必ず支えてやる。どこにいても。」

 眉村は微笑んだ。胸の奥があたたかい。我ながら子供じみている、という照れよりも、目の前の相手にすこしだけ甘えたい思いのほうが強い。今ひとたびの弱気な自分と向き合い、そしてまた強くなるために。

「だったら・・・今夜はもうすこしだけ傍にいてくれないか。」

「お前が望むなら朝までここにいるさ。」

 今はもう、触れ合うことは無い。でも、確かな絆がここにある。
穏やかな視線が絡み合い、そして、二つの心がそっと寄り添った夜だった。





◇◆◇







 それから二年が過ぎた。今年も眉村には同じ番組からの出演依頼が来た。ただし、今回は佐藤寿也も一緒だった。昨晩いつものように食事を共にした薬師寺は「この間よりも気楽に見ていられるぜ」と言って以前と同じように眉村をからかい笑った。

 テレビ局の明るすぎる照明がまぶしい。軽快なアナウンサーのトークに、愛想笑のひとつでも返してやればいいのだろうが、あいにくそういう愛嬌は持ち合わせていない。その役目は隣で笑顔を見せる佐藤がしっかりと果たしてくれているのだから問題ないだろう、と、眉村は予定通り次々と流れてゆく原稿と映像を静かに見つめていた。

 やがて、トライアウトの話題になった。眉村の古巣である横浜マリンスターズに育成枠で入団した同期のバッターがいるときくと、佐藤は大きな瞳を輝やかせた。コメントを求められ即答する。

「それはもう、驚きましたよ!あの茂野くんが、バッターになって戻ってくるなんて!さすがですね。」

 佐藤はまるでつい最近知ったような様子で、モニターに映し出される幼馴染をうれしそうに見つめていた。眉村はその演技力に舌を巻いた。驚くも何も、茂野吾郎の打者転向という選択には、佐藤自身も深く関わっているはずなのだ。だが彼はそんなそぶりなど微塵も見せず、早く一軍登録されるようがんばってほしいです、と笑顔でエールを送っていた。その姿にひとしきり感心してると、やがてアナウンサーの質問は眉村にも向けられたのだった。

___眉村投手はどう思われますか?

 正直、最初にきいたときは、無茶で無謀で馬鹿な奴だと呆れさえした。だが、画面に映る茂野吾郎の豪快なスイングを見ていると、なんともいえぬ高揚感に包まれる。眉村は自然と笑みがこぼれた。いかにも、彼らしいじゃないか。

「いつか彼と対戦してみたいです。その時は完膚なきまでに叩きのめしてやりますよ。」



テレビではめったに見せない、実に楽しそうな笑顔だった。






<終>








2010年8月9日 

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