<海堂篇 2>
職員室を少し覘いたが、担任だった教師は既に退職し、知っている顔はほとんどいなかった。
卒業後、もう10年以上たっているのだから仕方が無い。
寂しさよりも、時の流れを感じながら校内に入った。
すれ違う生徒たちが自然と自分に会釈してゆく。
弁護士としての貫禄なのだろうか?いや、すっかり社会人になってしまったからだろう。
薬師寺の足は自然と、音楽室に向かっていた。
いまさら自分に出来ることがあるかわからないが、
ここまで来たのだから、せめて佐藤の代わりに、後輩たちの顔を見てみるのも一興だと思った。
階段を上りながら、懐かしい音が聞こえ始めた。
ああ、これは金管楽器が音あわせをしているのだ。
思いがけず、胸が躍る。
一段、一段と上がるたびに、その音が少しずつ近くなる。
とともに、楽しげな話し声、そして、様々な楽器の音が混じりあう、学生らしい空気が漂ってきた。
3階につくと、音楽室とその前の広いホールに、数人の生徒たちが、楽器の準備をしていた。
弦楽器奏者は弓を張り、木管楽器はリードの調整。
誰もが音出しに余念がない。
その姿に、思わず薬師寺の口元にも笑みが浮かんだ。
____薬師寺!コレ、眉村の松脂でしょう?ピアノの下に落ちてたんだけど・・。
____何?アイツ新しいの持ってたぞ?また無くしたな?
____ハイ。君に渡しておくね?
____なんでだよ。
____だって君は「眉村係」だろ!?
____ふざけんな!
思い出が蘇る。
十年以上も前のことなのに、よく覚えているものだ、と小さくつぶやいた。
忙しそうな部員たちは、そんな薬師寺を特に気にも留めることもなく、
次々と音楽室に吸い込まれて行った。
おそらく、これから全体練習が始まるのだろう。
音楽室前に広い空間には、無数の空の楽器ケース、そして一人佇む薬師寺だけが残された。
防音ドアの向こうからは、今は何も聴こえない。
(今から合奏か・・このタイミングで入って行くのはさすがに気恥ずかしいな・・・)
一度はドアノブに手をかけた薬師寺は、思案顔のまま、その手を離した。
現役時代に部長だったとはいえ、卒業後、OBとして顔を出したことなどほとんど無い。
プロとして活躍する寿也や眉村ならともかく、自分が入ったところで、
かえって空気を乱すだけだろう、と薬師寺はそのまま帰ろうと思った。
その時だった。
パタパタと足音を響かせて、バイオリンを抱えた一人の少女が、廊下の向こうから駆けてくる。
彼女は少し慌てたように楽器ケースを開けると、
素早く楽器をセッティングして、チューニングを始めた。
(・・・やれやれ。遅刻のお姫様か。)
クス、と笑いながら薬師寺はしばらく彼女をみつめていた。
そして、ウオーミングアップで音階のスケールを響かせたその音色が、
ふと、昔の思い出を蘇らせた。
(あいつの音を、初めて聴いた時と似ている・・・)
おもわず、恋しい男の面影を重ねた。
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海堂学園高校は、音楽科と普通科を併設する、名門私立高校である。
入学して間もない春。
同じ中学だった先輩が、自分のクラスをたずねてきた。
「薬師寺、お前、部活どうすんの?」
「まだ・・・決めてません。」
「じゃあ一度うちのバスケ部見にきてくれる?」
「あ・・・俺、体育会系はちょっと・・・」
「あ?なんだよそんなキツクねぇぜ。」
「いや、でも。」
スポーツは嫌いじゃない。ただ、やりすぎて故障してしまった苦い経験から、
高校では運動部に入らないことにしていたのだ。
「もしかして、もうどこか決めてんの?」
「・・・実は・・・オケ部・・・にしようかと・・」
「何だよ?お前、文科系!?普通科のくせして、似合わねぇな。」
驚く先輩を適当にかわして、まるで逃げ出すようにその場から立ち去った。
(・・・まいったなー・・・。思わず口に出しちまった)
薬師寺は、「海堂高校管弦学部」と大きく書かれた新入生勧誘のポスターを眺めながら、頭を抱えていた。
実は、入学前から、密かにこの高校の管弦学部に心惹かれていた。
姉の影響で小さい頃弾いていたバイオリンを、もう一度やってみたいと思っていたからだった。
だが、入学早々、「管弦学部は、音楽科連中の独壇場」という評判を聞いて、二の足を踏んでいたのだ。
しかしながら、一度この眼で見てみないことには話にならない。
ええい、こうなったらイキオイだ、とばかりに、頭を振ると、
薬師寺は放課後を待ってみることにした。
オーケストラ部が練習場所として使っている音楽室は、階段を上がった3階の、一番奥にある。
その前の広い渡り廊下には、空の楽器ケースがたくさん置いてあった。
右奥の分厚いドアの向こうから、単調な音が途切れ途切れに聞こえる。
そっとあけてのぞいてみると、たくさんの部員たちが、緊張感を漂わせながら着席していた。
(・・・うわ、入れねぇ・・・)
固い雰囲気に押され、薬師寺は思わずドアを閉めてしまった。
また出直そう、と思った時、廊下の反対側、つまり、音楽科の校舎から、
一人の男子生徒がバイオリンケースを持って歩いてきた。
彼は音楽室の前で立ち尽くす薬師寺の前を通り過ぎ、廊下の隅に楽器ケース置いた。
そしてバイオリンを準備して、音を合わせると、見事なスケール音を響かせて、音階練習をしたのだった。
精巧で隙のない、完璧な音。
あんな小さな楽器で、どうしてこんなにも大きな音が出るのだろうというほど、迫力のある響き。
スポーツでいえば準備運動ともいえる、ただのスケール練習なのに、薬師寺はすっかりその音に聴き入ってしまった。
ひととおり音を慣らすと、その生徒はゆっくりと薬師寺に向かって歩いてきた。
遠慮のない視線に、薬師寺は少し動揺した。
そのまま、彼は薬師寺の目の前まで近づいた。初対面の人間が、普通に踏み込める距離ではない。
反射的にあとずさりした薬師寺は、勢い余って後ろのドアに背中ごとぶつかった。
「痛っ。」
「大丈夫か?」
きりりと整った眉毛の下にある、涼しげな瞳がまっすぐとこちらを見つめている。
切れ長の目元は冷たそうな印象だが、深い瞳が美しい。
薬師寺は思わず目線をそらしてしまった。すると、視界に相手の胸にある校章が飛び込んできた。
自分と同じ一年生を示す色をしている。
そして、プラスチック製の名札には、「眉村」という名があった。
(ま・・ゆむら・・・?)
「いいかげん、そこをどいてくれ。」
その言葉で、薬師寺は彼が音楽室に入るために自分の前に立ったのだということに初めて気がついた。
(なんで俺、焦ってるんだよ)
軽く謝りながら、自分の傍をすり抜けてゆく眉村に言葉をかけた。
「お前・・・音楽科?」
「ああ。」
「オケ・・やるの?」
「昨日、入部した」
だからどうした、という顔をしながら、眉村はゆっくりとドアの中に消えた。
(なんだ・・・・あいつ?)
薬師寺はしばらく、目の前で閉まった扉を見つめていた。
音楽系の部活というのは、ああいう無愛想な奴ばかりなのだろうか、
と首をかしげながら、結局、出直すことにした。
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2008年1月14日
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