<海堂篇 4>
 






「よし。じゃ、やるか。」



榎本、と呼ばれた2年生が指揮台に上がった。
先ほどのコントラバスの男子生徒が立ち上がり、今日の演目を告げる。
彼は千石真人。2年生の次期部長だった。
来週の定期演奏会のプログラム曲を、今日は新入部員のために演奏するという。

__もし気に入ったら、是非入部してほしい。
お世辞にも営業スマイルとは言い難い、ちょっと硬い表情で千石は新入生たちに呼びかけた。

「あーこの人、顔だけでなく中身も怖いから、そこんとこ覚悟して入部してください。では、はじめます。」

本気で新入生を勧誘するつもりがあるとは思えないセリフとともに、指揮者の榎本は指揮棒をかまえた。
思わず笑いが漏れた部員たちだったが、すぐに楽器をかまえ、緊迫した静寂が訪れる。
見学している新入生の全員が息を呑んだ。

「・・・すごい。」

張り詰めた空気。それを支配する指揮者のオーラ。
演奏者の全神経は、榎本の持つ小さな細い棒の先に集中する。


榎本はふ、と一瞬柔らかな笑みをうかべると、次の瞬間、鋭利な刃物のようにタクトを振り下ろした。
リズミカルで華やかな、エルガーの「威風堂々」が始まった。
硬い、氷のような緊張感を打ち破り、堂々と行進してくる和音たち。
一糸乱れぬテンポで弦楽器の弓が上下する。管楽器のブレスもぴったりと息があっている。
ゾクゾクするようなユニゾンのメロディに、自然と湧き上がる高揚感。


「こ・・れは・・?」

華麗に舞うタクトの先から、踊るような音符がキラキラを輝いて見えた。
無数の楽器が奏でる旋律が手を取り合うように重なって、
ひとつの音楽になってゆく様に、体が震えるような感動に包まれた。

(なんて・・・・なんて素晴らしいんだろう)

新入生たちもすっかり虜となり、曲が終わると、皆が拍手していた。
寿也も夢中で両手を叩いていた。

久しぶりに感じた、爽快感だった。


続いて2曲目は、耳慣れたメロディーで始まる、映画音楽だった。
軽快な旋律は、先ほどまでの寿也の緊張を緩めた。
寿也は改めてオケ全体を見回した。
部員数はかなりの人数だ。個々の技術差はあるのだろうが、
それらをカバーする統一感により、まとまりのある美しい音色が聴こえてくる。
きっと厳しい練習を重ねてきたのだろう。

(って僕は何を考えてるんだ。ピアノしか弾けない僕じゃ、オケには入れないのに・・・)

無駄な分析をしていた自分にあきれながら、メインテーマを奏でるバイオリンの美しい旋律に耳を傾けた。
すると、隣に座る生徒二人が耳打ちしているのが聞こえてきた。

「見ろよ・・・あいつ一年なのに、来週の定期演奏会に出るらしいぜ」

「ああ、音楽科の眉村健だろ?もうプロデビュー間近ってうわさじゃねぇか。」

「あいつが眉村か。だったら、入部早々、オケで弾けるのも納得だな。」

「一年生でいきなりレギュラー入りするようなもんだぜ。すげぇよ。」

バイオリンパートの最後尾にいる、短髪の男子生徒を指して言っているようだった。
名門高校の層の厚さに、寿也はあらためて感心していた。

(へえ。やっぱレベルの高い奴がいるんだな。)

その話は、寿也とは反対側の長椅子に座る学生の耳にも聞こえていた。
薬師寺だった。

(眉村・・・?)

あの日音楽室の扉ですれ違った男の名を、薬師寺は小さくつぶやいた。



・ ・・・・・・・・・・・・・・


新歓コンサートが終わると、一年生たちはひととおり入部説明を聞かされた。
やっと開放され、本来の目的を果たそうともう一度音楽室に戻った寿也だった。
ところが、一つ一つ机の中を覘いても、忘れたはずの楽譜が見当たらない。

「おかしいな。」

授業で使えるよう、元通りに直された音楽室。
先ほどまで配置されていたオーケストラはまるで幻だったと思わせるくらい、整然と机が並んでいる。

「ここにあると思ったんだけどな・・・。」

困ったように首をかしげる寿也に、入り口から声がかけられた。

「探し物はコレか?」

振り向くと、そこには見慣れない一年生が寿也の楽譜を持っていた。

「あっ!!そうだよ。ありがとう。」

「俺が座った椅子の下に落ちていたんだ。職員室に届ける前に、持ち主が見つかってよかった。」

寿也は楽譜を受け取ると、礼を言った。

「ありがとう。助かったよ。えっと・・・」

「薬師寺だ。普通科の一年。お前は音楽科か?」

「僕はピアノ科の佐藤寿也。薬師寺・・くんだっけ?管弦楽部には入るの?」

「あ、いや、俺は普通科だからな。やっぱり敷居が高いからやめておくさ。」

少しクセのある髪を掻きあげながら、彼は苦笑した。

「ふうん・・・」

「お前はどうなんだ?」

「僕は無理だよ。ピアノしか弾けないし・・・」

「やりたい楽器はないのか?」

「・・・そう・・だね・・」

本当は、先ほど見た指揮者の姿を思い出していた。
だが、先ほどの入部説明では、「指揮者」というパートは無いと言う。
部員たちは必ず何かの楽器パートに所属し、指揮者はその中から選ばれるというのだ。
あの榎本先輩は本来フルートパートで、一年生の時は木管楽器の華として活躍したという。

(ピアノ以外できないもんなぁ・・・)

残念そうに思案していると、薬師寺が足を止めた。
ここから先は音楽科の校舎だった。彼はめずらしそうに廊下の先を眺めている。

「こっちには来たことないんだね。僕鞄を取ってくるからココで待っていてくれるかな。」

人懐っこい笑顔と、有無を言わさぬ勢いに押され、薬師寺は反射的にああ、と言うのがやっとだった。

「オケをあきらめた者同士、よかったら、一緒に帰ろうよ。」

じゃあね、といいながら、寿也は奥の教室を指差して早足で駆けて行った。

薬師寺が残された廊下の反対側には小さな練習室がいくつも並んでいて、様々な楽器の音が漏れ聞こえている。
その中から、バイオリンの音が聞こえた。
気になって中を覘くと、そこにはあの眉村がいた。

(あいつ・・・)

扉を背にして、楽器を構える彼の背中から聞こえるのは、
先ほど新入生歓迎コンサートで聴いたエルガーの威風堂々。
美しい音色と卓越したテクニック。
とても同い年の高校生とは思えない崇高な雰囲気に、薬師寺はただ見惚れるばかりだった。

ところが、流れゆく行進曲風の調べは、ある部分に差し掛かると、急に止んでしまった。
眉村としては納得がいかないのだろう。一度楽器を離し、楽譜を確認すると、
同じ箇所を何度も何度も、繰り返し始めた。
彼の体の向きが変わり、音にあわせ時折真剣な眼差しが見え隠れした。

暮れかかった窓の光が、整った顔立ちを際立たせていた。
とても美しい、と薬師寺は思った。

「へ・・え。彼、入ったばかりですごいと思ったけど、努力も人一倍なんだね」

いつの間にか戻ってきた佐藤が薬師寺に声をかけた。
薬師寺は自分が眉村を見つめ続けていたことに気付く。
急に早くなる鼓動を悟られたくなくて、思わず思ってもないことを口走ってしまった。

「確かにテクニックはすごいものがあるな。でも・・・」

そのとき、眉村が内側から防音ドアを開けた。
薬師寺は気付かずに言葉を続ける。



___ああいう音は、深みがなくて好きじゃない。


耳に届いた薬師寺の言葉に、眉村は動揺することもなく、無言でその場を立ち去った。

なんという間の悪さだろう、と焦った寿也は薬師寺を伺った。
彼は小さくなる眉村の後姿を見つめながら、声を失ってしまっていた。





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2009年5月11日

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