<海堂篇 5>
その夜、自宅で机に向かっていた薬師寺は、広げた教科書の上で鉛筆を転がしていた。
単調な動作を繰り返しながら、ため息ばかり漏れる。
海堂高校はそれなりの進学校なのだ。しっかりと勉強しなければ
という危機感があるのに、ちっとも手に付かない。
誰もが認める奏者の音をけなしてしまった。それも、本人の前で。
こんな失敗は初めてだった。
今まで、人付き合いに関してはそつなくこなしてきただけに、薬師寺は頭を抱えた。
これでは、オケ部に入るどころの話ではない。
「あーーもう・・・。」
だったら忘れればいいのだ。
しつこく根に持つタイプの女を相手にしているのではない。
あの落ち着きぶりから小さなことを気にするような男とも思えない。
もともと科も違うのだ。時間さえ経てば、そのうち何も無かった事になるだろう。
「でもなぁ・・・」
前髪を引っ張っては離す。考え事をするときの癖だった。
あの時の状況を考えたら、やはり申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
何も言わずに立ち去った眉村の伏せた眼を、どうしても忘れられなかった。
何よりも・・・・。
彼と再び話せなくなりそうなのが嫌だった。
「ちくしょう。さっさと謝ればいいんだろうが!!」
どさり、とベッドに身を投げると、薬師寺はまた一つ大きなため息をついた。
上手くコントロールできない自分の感情は、彼に謝罪してしまえば消えるはずだ。
そう結論づけて、薬師寺はそのまま眠りに落ちようと瞼を閉じた。
次の日。
薬師寺は放課後、眉村の姿を探して音楽室へと向かった。
管弦楽部の部員たちは、いよいよ迫った定期演奏会への準備で騒然としていた。
そこに迷い込んだ薬師寺を見つけたのは、すでに部長として一切を仕切っていた千石だった。
彼は当たり前のように薬師寺に声をかけた。
「こないだ新歓に来た入部希望の一年だな。ちょうどよかった。」
「いえ、俺は違うんです。」
「いいから手伝え。譜面台の数を数えてこの紙に記入しておいてくれ。」
「は・・・はい・・・。」
猫の手も借りたいという雰囲気を察した薬師寺は、
断ることも出来ず、頼まれた雑用をこなしていった。
「終わりました。」
「悪いな。じゃあ、あとは・・・・そうだ。バイオリンパートの一年と一緒に、
このプログラムを職員室に持っていってくれ。おい!眉村!!」
眉村が、廊下から音楽室に入ってきた。
まさかとは思ったが、やはり呼ばれたのは彼だった。
急に現れた彼の姿に、薬師寺は少し緊張を覚えた。
恐る恐る相手の顔をうかがうと、彼は不思議そうな顔でこちらを見ていた。
部長に言われるまま、二人は冊子の束を抱えて廊下を歩く。
並んで歩むペースを相手に合わせようとした薬師寺だったが、
昨日の気まずさから何を話していいのかわからなかった。
すると、先に口を開いたのは眉村だった。
「同じ部員だとは思わなかった。パートは?」
「い、いや・・・その・・・。」
入部については頭に無かった。彼に謝るためだけに音楽室に来たのだ。
じっとこちらを見つめる切れ長の目に、
薬師寺は遂に言葉を発した。
自分でも驚くくらい、はっきりとした声で。
「昨日は悪かった。」
「昨日?」
「俺の言葉で・・・・気分を害したんじゃないかと。」
薬師寺は立ち止まって軽く頭を下げた。
すると眉村は苦笑まじりにため息をついた。
「お前が言ったことは間違っていない。」
「え?」
眉村の音に深みがない、と言い切った薬師寺の言葉を、彼はしっかりと覚えていたようだ。
「常々思っていることだ。あれほどまではっきりと、師匠以外の人間に言われたのは・・・初めてだが。」
うっ、と薬師寺は言葉に詰まる。もう一度頭を下げた。
「その・・・すまなかったよ。」
薬師寺には長く感じられた、一瞬の沈黙は、静かな声音で終わりを迎える。
「・・・もういい。」
頭を上げた薬師寺の目の前にいたのは、
意外にも柔らかな笑みをたたえた眉村の姿だった。
「これから一緒にオーケストラをやるんだろう?」
___なんだ、こいつ、笑うと・・・・?
無愛想な奴だとおもっていたけれど、こんな表情も見せるのか、と、
薬師寺は思いのほかうれしくなった。
そして、今までの苦悩が何だったのかと馬鹿らしくなる。
思わず笑顔になる。
「ああ。同じ楽器だぜ。」
すると眉村は少し驚いた顔をして、同じ学科だったか、と問う。
薬師寺は軽く首を振り、
「俺はお前の足元にもおよばねぇけど・・・ま、がんばってみるさ」
と言って、優しい眼差しを返した。
そして、入部をあきらめていた男のセリフじゃねぇな、と胸の内で呟く。
何がそう思わせるのかわからなかった。
ただ、心は決まってしまっていた。
___眉村のことを、もっと知りたい。
こいつと一緒に、音楽を奏でてみたい。
それだけははっきりと感じた。
彼が突然みせてくれた優しい微笑みのように、きっと魅力的な何かに出会えるだろう。
そして、胸の奥に感じる小さなざわめき。
じんわりと温かく、心地よさの中に走る緊張感。
これはきっと、新たな世界への好奇心なのだ。
薬師寺は、そう信じて疑わなかった。
「よろしくな、俺は薬師寺。」
「眉村だ。」
本当は握手したいところだったが、互いの両手はプログラムの束でふさがっていて、
なんともいえない空気が漂った。
二人はクス、と笑うと、じゃあさっさとコレかたづけちまおうぜ、と、再び並んで歩き始めた。
・ ・・・・・・
定期演奏会が無事に終わり、3年生たちが引退した。
管弦学部の主軸は部長の千石を中心とした2年生となり、新入生たちもそれぞれのパートに配属され、
新しいオーケストラが始動していた。
薬師寺はセカンドバイオリンに配属された。
久しぶりに触る自分の楽器に緊張しつつも、ハイレベルな練習になんとかついて行く日々が始まった。
ファーストバイオリンの眉村とは厳密にはパートが違うのだが、
部活が終わると、不思議と眉村は薬師寺の元へ来ることが多かった。
寿也は、二人がよく一緒にいる姿を時々見かけるようになりほっとしていた。
あの日、練習室前で感じたきまずい空気がなくなったことがうれしかった。
授業が終わったある火曜日の午後。
「薬師寺!」
「・・・佐藤?」
渡り廊下で眉村と別れた薬師寺が前方から歩いてきた。
楽器ケースを片手に遠ざかる眉村の後姿を眺めながら、
寿也が話しかけた。
「オケ入ったんだね。彼とも仲が良さそうじゃない?」
「おかげさまで。練習はきついが、楽しくやってるよ。お前も入ればいいじゃないか。」
「いや・・・だから僕は・・・・」
困ったように否定する寿也の表情の中に、何かを感じ取った薬師寺は、少し強引に音楽室に彼を連れていった。
「まだまだ部員、募集してたぜ?時間あるならこのあとの練習見ていけよ!」
「え?」
「俺らはちょっとミーティングがあるんだが、そのあとここで全体練習やるんだ。見てたら面白いぜきっと。」
さりげなく、自分の背中をおしてやりたい、という気持ちが伝わってきて、
寿也は有りがたくもその好意を受け取ろうと思った。
ピアノを続けてゆく上で、
オーケストラに触れることが、何かいい影響を与えるかもしれない。
何か新しい世界に飛び込むことで、今の自分が変われるかもしれない。
寿也は海堂高校に入ってはじめて、
少しだけ前向きになろうとしていたのだった。
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2009年7月4日
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