<海堂篇 6>
 








誰もいない音楽室に佇む寿也は、
教室よりも天井が高い空間に寂しさを感じていた。

がらんとした広いスペース。
ついこのあいだ、部屋一杯に美しい響きを奏でたオーケストラが夢かと思えるほどだ。
その隅に、指揮台だけがポツンと佇んでいた。


譜面台にはスコアと指揮棒が置かれている。おそらくこの後の練習で使うものなのだろう。
その分厚い中身を見てみたいとおもった寿也は、そっとページをめくる。
一ページに描かれているのはほんの数小節。
そこにある無数の音符が奏でるであろう、重厚な音の層を思うと、
何故か胸がドキドキした。


それを眺めながら、譜面台の下部にあった指揮棒に恐る恐る触れてみる。
コルクのもち手が、しっくりとその指になじんだ。細く白いその身は、鋭利ではあるが柔軟さを感じる。


寿也は誰もいないことを何度も確認すると、そっと指揮棒をかまえてみた。
目を閉じて、無数の楽器を構えたオーケストラを想像する。
控えめに振り上げたその手は、見よう見まねでも、なかなかサマになっている。
ゆっくりと腕を上下する。
まるで楽器の音色が聴こえてくるようだった。


いつのまにか、寿也はメロディーをくちずさみながら、思いつくままにタクトを振っていた。



「へえ・・・うまいじゃん。」



突然聞こえてきた一言に、寿也は心臓が飛び出るかと思うほどの衝撃を感じた。
振り向いた先にいたのは、先日見た2年生の指揮者_榎本直樹だった。


「すみません!!」


寿也は真っ赤になって、飛び降りるように指揮台から離れた。
手に持っていた指揮棒を慌てて彼に渡すと、一目散にその場を離れようとした。


「ちょーっと待った。」

「ごめんなさい。もうしませんから。」

「な、君、指揮者専属で入部しない?」

「え?」


驚いて目をぱちくりさせる寿也に、榎本は満足そうな笑みをうかべ、
いいからいいから、と行って外に連れ出した。





・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





「だから・・・俺は指揮者専属の部員がいたほうがいいと思うんだよね。」

「またお前は勝手なことを・・・うちの部の伝統に反するんだよ」



寿也の前で、榎本直樹は部長である千石と激しく口論していた。
音楽室から連れ出されたところで、ちょうどそこにやってきた千石に引き合わされた寿也だったが、
目の前の二人の勢いに、ただ様子を伺うことしかできない。


「だって、今年は俺、フルートでもステージに乗りたいの。メインの指揮以外はやりたくないんだけど。」

「てめえどんだけワガママなんだ!」

「お前ねぇ。指揮者ってけっこう孤独なんだぜ?そのくらいの希望が通ってもいいだろう?」


なんだかんだいって、千石は俺の頼みをきいてくれるじゃん、というその顔を、
千石は無下にできない。


「・・・検討しとく・・・」

ゴリ押しに負けたというより、最初から勝ち目はなさそうだった。
上目遣いで千石に視線を送る榎本が、にっこり笑う。


「よっし、じゃ、決まり。この子、俺の後継者、佐藤くん。明日から部員だね!」

「あの・・・」

「じゃあおれ、今日は木管分奏見ることになってっから、あとよろしく!」

(あとは・・・って・・・)


思いがけない展開に、寿也はついてゆけない。
やっとのことでクラスと名前を小さな声で告げると、恐る恐る千石の顔を見上げた。
意外にも、強面の先輩はやれやれ、という顔で苦笑していた。

「こないだの歓迎コンサートのあとから、急に無茶なこと言い始めたと思ったんだが・・・」

不思議そうな表情をしている寿也に対し、千石はふ、と笑った。
あの独裁的な榎本が、指揮台を他の人間に明け渡すと言ったときは、何の悪ふざけかと思ったのだ。
だが、まだ新しい制服に身を包んだこの青年に何かを感じたのは確かなのだろう。
時折らしくない優しさを見せる榎本の胸の内を、千石は理解しているつもりだった。
伊達に深いつきあいではない。


(ただの気まぐれじゃなさそうだ。)


榎本は無能な人間に情けをかけるような奴ではない。
千石は目の前の若者をマジマジと見つめた。
そして彼に潜むであろう未知の力に、興味を示した。
榎本が目をつけたのだ。期待してもいいかもしれない。


「次の演奏曲目は難易度も上がる。榎本の負担を軽くして、指揮者のカラーの違いを出してみるか。」

「は、はあ・・・」

「ま、とにかくやるからにはしっかりやれよ!」


そう言って千石は忙しそうに音楽室に入って行った。
後に残された寿也はポツリとつぶやいた。


「僕・・・入部するなんてヒトコトも言ってないのに。」


それでもじわじわと胸にこみ上げる、温かな喜び。

(僕が・・・オーケストラを・・・!?)

高鳴る胸を押さえながら、寿也は笑顔になっていた。





・・・・・・・・・・・・




管弦学部に入部した寿也は、その日から猛烈に指揮の勉強を始めた。
寿也を勝手に勧誘して入部させた榎本だったが、
つきっきりで教えるようなことはしない。
それはなんとなく予想ができたことだった。


寿也はあらゆる手段を試みた。
海堂高校に指揮科は無かったが、担任のピアノ教師に指揮のわかる教師を紹介してもらった。
一方、録画したクラシック番組を繰り返し再生しては、
巨匠と呼ばれる音楽家の術を食い入るように見続けた。


こんなにも何かにのめりこんだのは久しぶりだった。
毎晩、遅くまでスコア譜と対峙しながら、
寿也はただひたすら前に進もうと、必死で足掻いていた。



いよいよ、寿也が初めて指揮台に上がる日がやってきた。
合奏のために集まった部員は、初めての試みに興味津々だ。


「きいたか?えのもっさん、自分が楽をしたくて、指揮者専属部員を入部させたんだと。」

「相変わらず自分勝手だなぁ。オケの経験もなくていきなり指揮なんか無茶だっつーの。」

「あの佐藤ってやつ、ピアノしか知らないんだって?大丈夫なのか?」

「失敗したらどーすんだよ」

「即退部だろ!?」


ヒソヒソと囁かれる、上級生の心無い言葉に、薬師寺はあからさまに眉をひそめた。


「ちくしょう。好き勝手言いやがって。」

今にも喧嘩を売りそうな薬師寺を、眉村がやんわりと制止する。

「薬師寺。」

「アイツがどんなにかんばっているか、ぶちまけてやりてーよ。」


入部が決まってから、何かと力になってきた薬師寺は、悔しそうに呟いた。

「だが、力がなければ、あの場所に立っても辛いだけだ。余計な同情はしないほうがいいぞ。」


眉村は、あくまでもお手並み拝見といった様子である。
しかし、そんな彼も薬師寺と共に寿也の楽曲談義に付き合ってやっていた。
このところ学内のあるカフェテリアでは、
日が傾いてもなお真剣な面持ちで語り合う3人の姿がよく見かけられたのだった。


音楽室のドアが開いた。
ざわめきが静まり、視線が寿也に集中する。


緊張の面持ちで指揮台に向かう寿也は
不安と緊張で、見るからに硬そうな動きで壇上に上がった。


「よろしく・・・お願いします。」


寿也の構えるタクトが、少し震えていた。







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2009年9月28日

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