<第4章 バイオリニスト>









「ちょっとぉ、薬師寺くん、だっけ?話あるんだけどいいかしら?」

はじめての全体練習が終わり、その散々な出来に皆げっそりして片づけをしていたとき、
薬師寺はバイオリンを抱えた長髪の男子生徒に話しかけられた。


「あ、久里山高校のコンマス・・・」
「やだあ、コンミスって言ってよね?香取よ。よろしく。」



軽くウインクされて若干引いてしまったが、実力はなかなかの久里山高校のコンマスは、
このオケでは1stバイオリンに参加していた。


「午前中のストバイの練習なんだけどね・・。御宅の眉村君、実力の程は重々承知なんだけど、
要求することがハイレベル過ぎて・・・。なんとかならないかしら?
海堂のバイオリンの人はいいけど、うちは高校から楽器始めた子もいるから、
正直彼のレベルにはついていけないんだけど・・・。」


それを聞いて薬師寺は、起こるべきことが起こったな、と頭を掻いた。
元々眉村はソリストを目指すプロである。海堂オケは他のメンバーがほとんど音楽科であり、
それなりのレベルの高さだったからうまくいっていたが、それでも時々、
寡黙な彼の意図するところが伝わらないときは、薬師寺がそれとなく彼とメンバーの潤滑油となり、
調整してきたことが何度かあった。
ましてや、今回は知り合ったばかりのメンバーで、初心者上がりもいるのだ・・・。

「・・・わかった・・・。俺から何とか言っておくよ・・。でも、あいつ、あまりおしゃべりな奴じゃからな。
どうしても言葉が足りないところは、悪いんだが、香取からうまくフォローしてやってくれないか・・?」

それを聞いて香取はため息まじりに、しょうがないわねぇとつぶやくと、笑顔で
<眉村係の薬師寺くん>がそういうなら、がんばってみるわ、と言った。

「は?なんだよ、それ?」
「え?指揮者の佐藤君が言ってたわよ?最初に相談したら、
セコバイのパトリが<眉村係>だからって・・。」

香取はクスクスと笑いながら、じゃ、よろしく、とだけ行って、自分の楽器を片付けに戻っていく。


(佐藤の奴・・・)


他校の生徒にそんなこと言わなくてもいいだろう、と憤慨しながら、薬師寺は眉村を探す。
譜面台を抱えたビオラの泉に会ったので聞いてみると、個人練習用の音楽室に行ったときいたので、
別棟の音楽科の校舎に向かった。



・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


一年で一番日の長い日が近づいているせいか、5時を過ぎても外は昼間のように
明るかった。
西日が強いため、ブラインドを半分下ろした練習用の個室から、チャイコフスキーの
バイオリン協奏曲が聴こえてくる。華やかで優雅で、力強い、一楽章のアルペジオ・・・。
薬師寺の好きな、眉村らしい曲だった。


全く、こんな難しい曲を簡単そうに弾くなよな、と、しばしドアの外で聞き惚れる。
曲が終わるまで待っていると、急に旋律が途切れた。中を覘くと、眉村は楽器を放して窓のほうを向いていた。

そっと、ドアを開ける。

「練習中に悪いな。ちょっとオケのボーイングのことで、いいか?」
「ああ。」


並んで机に座ると、それぞれの楽譜に鉛筆で書き込む二人。

そうやってしばらく、ピアノコンチェルトの弓順について相談しながら、薬師寺は先ほどのことを
それとなく、眉村に伝えた。眉村は少し苦い顔をして、そうか、とつぶやいた。


「だから、無理して音楽祭に参加しなくても、と言っただろ?お前がでるほどの舞台じゃないと思うぞ?」
「・・・・・。」
「・・・・・留学・・決まったんだろ??・・・ソロに集中したほうがいいんじゃないのか?」


今ならまだ、降板しても・・・と言い掛けて、眉村がいつになく厳しい顔でこちらを見ているのに気がついた。



「薬師寺。」
「なんだよ。」
「・・・・俺はヨーロッパに行く前に、最後にもう一度、このオケで演奏したい。
ずっと一人で弾いてきた俺がここまでやってこられたのは、やっぱり海堂での経験と・・・」



_____お前に・・・会えたから・・・。

俯いて、小さな声でつぶやいた言葉に、薬師寺は胸が締め付けられる思いがした。
いますぐ強く抱きしめたい衝動をぐっと抑えて、ただやさしく言うのがせいいっぱいだった。


「・・・・・・・わかってる。でもお前はもう、俺のこと忘れて、音楽の道突き進むんだろ?」


「・・・忘れないと・・・だめ、なのか?」


眉村の手が薬師寺の手に重なり、その瞳が悲しげに彼を捉えた。
たまらくなって、その手を強く握り、引き寄せて甲に口付ける。
そして薬師寺はやさしく、でも、はっきりと、そうだよ、とだけ言った・・・。







・・・・一年の夏、将来を有望視されつつも、そのすばらしいテクニックに伴う表現力をなかなか得ることができずに、
眉村は伸び悩んでいた。
眉村を密かに想っていた薬師寺は、そんな彼の姿を放っておけなかった。
眉村は薬師寺といる時の自分が、いつになく満たされていることを知り、
二人が特別な関係になるのに時間はかからなかった。



彼を愛し愛される喜びが、眉村の表現力を開花させ、
その音色は今までにないような艶っぽさと美しさを兼ね備えることとなる。
それは同時に、彼のプロとしての進路が確固たるものとなり、
二人が一緒にいられる時が限られることを示していた。





恋が叶うと同時に、皮肉にも別れる運命も決まってしまったことに、
薬師寺はずっと心を痛めてきた。


それでも、彼が心おきなく旅立てるように、自分は身を引こうとした決心は固かった。






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