<第8章 告白>










吾郎の家で、曲のテンポについて歩み寄った二人は、一息つきながら、
和やかに談笑していた。時間を忘れて、思い出話に花が咲く。


「で、お前大学受験するのかよ?」

「え? あ、うん・・・。」

「昔っから、勉強できたからなぁ・・・。でもよ・・・音楽、本気でやめんのか?」


その話は、したくなかった。

正直、合同オケを始めてから、寿也はまた指揮にのめりこみ始めていた。
個々の技術を熟知し、気心も知れた海堂オケと違い、今回のオケを仕切るのは至難の技だったが、
一人ひとりの個性を引き出し、まとめあげるというこの過程に、
寿也は今まで感じたことのないやりがいを感じていたのだった。
かといって、急に指揮者になる夢を見られるほど、自分の実力をかいかぶるわけにはいかなかった。


このオケで、吾郎と共演するから、こんなにも入れ込んでいるんだ。
ステージが終わり、吾郎が去れば、きっと、何もかもが夢のように消えていくんだろうという現実を、
寿也はさびしく思うだけだった。


吾郎の鋭い視線を避けるように、さりげなく話題を変える。


「アメリカはどう?ジュリアードってすごいところなんだろうね?」

「まあな。いろんな奴がいるさ。」

「・・・・・また、戻るの?」


寿也は、ずっと訊こうと思っていた言葉を口にした。


その問いには答えず、吾郎は急に寿也を誘ってピアノに座らせる。

「え??」

「たまには弾いてみろよ!指揮ばっかりで、ピアノ触ってないだろ?」

「そんな!?君の前で弾けるわけないだろ!?」

「何なら俺が左手弾こうか?ほら、あの曲・・・難しい曲じゃねーだろ?」

「や、やだよ! 子供の生徒じゃあるまいし・・」


寿也の言葉などおかまいなしに、吾郎は、乱暴なくらい強引に、彼の手を鍵盤に添わせた。
触れ合う手と手に、思わず、顔が赤くなる寿也。それを見られたくなくて、とっさに、
ショパンの<雨だれの前奏曲>を弾き始めた。

軽やかな指裁きから繰り出される落ち着いた音色が、広い部屋を踊るように駆け巡る。
低音が響き、そして和音が重なる。

吾郎はただ、見とれるしかなかった。
寿也のピアノ。それは、雨のような、それは、雲の隙間から漏れた光のような。



開いた窓から風が入り、出窓のカーテンが少し、揺れた。



ふいに、背中に気配を感じた寿也の旋律が止まった。どうしたの?と訊こうとして
振り向こうとする前に、目の前に伸びてきた逞しい二の腕。
寿也は吾郎に、後ろからすっぽりと抱き締められていた。




「____!!」



「・・・・俺、寿也のこと・・・忘れられなくて・・・帰ってきちまった・・。」


かすれるような声。やっとのことで発せられた言葉は、あまりに突然で、
あまりにも信じられなくて。


「今、なんて・・・?」


吾郎の腕に包まれて、視線を鍵盤の上に落としたまま寿也は動けなくなってしまった。


吾郎の震える声が耳元で囁く。


「・・・・ずっと・・・好きだった。もう、寿也と離れたくない。」


「・・・・吾郎君・・・?」



胸が張り裂けそうで、息ができないかと思った。叶わぬ恋とあきらめながら、
一方ではこんな日が来ることも心のどこかでわかっていた気がした。



聴く者すべてを魅了する音を生み出す吾郎の手___その掌が、今、寿也の髪を撫で、頬を伝った。
その手に導かれるようにして、そっと寿也が振り返り見上げると、切なげな吾郎の視線にとらわれる。


ゆっくりと、吾郎の唇が近づく。寿也は自然に瞼を閉じた。


_______そっと唇が重った。


それは、触れるだけの、やさしいキス。
それなのに、体中を走る稲妻のような甘い衝撃。
思わず照れた寿也がうつむくと、吾郎がやさしく抱きしめる。


ああ、やはり僕は、君を想う事から逃れられない・・・。


寿也は、夢見心地で吾郎の背中に腕をまわそうとした_______。




その時、ふいに電話の呼び出し音が家中に響き渡った。



吾郎は思い切り聞こえないふりを決め込んだようだ。そのまま強く寿也を抱きしめて、
もう一度唇を寄せてきたが、寿也は少し我に返って、ゆっくり彼から離れると、電話にでたら、とやさしく言った。


吾郎は不満げに、そして少し照れたように、話まだ終わってないから、とだけ言い残すと、
足早に階下へと降りていく。


ほどなく、呼び出し音が消え、代わりに吾郎が英語で話す声が聞こえてきた。


(・・・・・アメリカから・・・?)


急に吾郎の口調が激しくなる。
勉強としての英語はそこそこできる寿也だったが、さすがに早口の会話まではすべて聞き取れない。



ただはっきりと、寿也にわかったのは、吾郎がアメリカに戻ることを拒絶しているような内容の言葉だけだった。


寿也の心に、何かがひっかかる。


夢にまで見た愛しい彼の言葉を、素直に心から喜べない。
自分のことなど忘れて、ひたすら未来へと羽ばたいていったと思っていた彼が、
こんなにも自分を必要としてくれているのに・・?


もしや、前途ある道を捨ててきたとでも言うのだろうか?


そんなバカな・・・。



(そういえば、さっき弾きながら、ここでピアノ教室やるのも悪くない、なんて言ってたけど・・・)



・ ・・本気だろうか?



まさか・・?



そこまでして、自分は、彼の傍にいるべきなのか?
一方で、やっと手に入れたこのぬくもりを、手放すなんてできない、とも思った。


寿也の頭の中で、様々な思いがぐるぐると駆け巡る。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



「なあ、寿也、俺、お前に話したいことあるんだ。」

戻ってきた吾郎は、照れ隠しなのか、何事もなかったかのように
屈託のない笑顔で寿也に話しかける。


寿也の体がこわばった。そして自嘲するように、ふっ一人で笑うと、
吾郎にはっきりと言った。



まるで、さきほどのキスなどなかったかのような満面の笑みで、
吾郎の胸をこぶしで叩くマネをして。


「・・・だめだよ、吾郎君。ちゃんと向こうで勉強しなきゃ。」


「寿也・・・?何のことだよ?」


「確かに僕は君のことが好きだったよ。ずっと。でももう忘れたんだ。昔のことだよ。」


「寿也、嘘つくなよ!」


「今は君のことなんてなんとも思ってないんだよ!僕のために帰ってきたなんて言われても、僕にはどうすることもできないよ。」


淡々と語る寿也の心中を、吾郎は推し量れずにいた。


「・・・・・そう・・・なのかよ・・?」


「・・・・・・もう、遅いんだ吾郎君。 いまさら君を好きになんてなれないよ。
 だから、ごめん・・・。」


「・・・待てよ! 俺の話も聞けよ!」



部屋から出て行こうとする寿也の手を吾郎が掴む。
その手を振り払うと同時に、自分でも驚くような声がでた。


「わからない?迷惑だよ!」


寿也は冷ややかに言い放って、立ちすくむ吾郎を後に残し、
茂野邸から逃げるように立ち去って行った。



これでいい。これで本当にあきらめられる。




彼の二の腕が自分を抱きしめ、その唇が自分への気持ちを語り、そのぬくもりを
ひと時だけでも受けることができたのだから_______。


吾郎を、そして吾郎の音楽を、自分だけのものになんてできない。


吾郎の行く先に、輝ける未来があることは誰の目にも明らかなのだ。
今ここで立ち止まらせるわけにはいかない。


寿也の歩みはしっかりしていた。


でも心は置き去りにしてしまったようだ。


涙が・・・でてこなかった。




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