<再び紡ぐ>
闇夜に響く蹄の音。
満月ではないが、月明かりは思ったよりも明るい。
雨があがったばかりの野原には、初夏独特の草木の匂いがたちこめる。
吾郎はただひたすらに馬を走らせてゆく。その後ろには寿也しかいなかった。
「何処へ行かれるのです!」
寿也は、一人で野駆けに出るといって聞かない吾郎の後を追っていた。
本気で馬を走らせる吾郎について行くのは寿也でも至難の技だ。
気を抜くと、すぐ距離が開いてしまう。
それでも、いつもと様子が違う吾郎に只事ではないものを感じた寿也は、
必死でくらいついてゆく。
やがて、国境の大きな川が見えてきた。
その川すらそのままの勢いで渡ろうとする吾郎。
しかし、急な流れに、馬の足が取られる。
水音と、馬の嘶きがあたりに響いた。
「上様!無茶です!」
寿也は川岸で自分の馬を降りると、川に入り、暴れる主君の馬の手綱を取ろうと試みる。
馬上の吾郎は、振り落とされまいと馬にしがみつきながら、
寿也の姿を見て叫んだ。
「寿也、危ないぞ、戻れ!」
「いいえ戻りませぬ!・・・あっ」
体制を崩した寿也が、足を滑らせて川に沈んだ。
「寿也!!」
声を発すると同時に、吾郎も水面に飛び込んだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
川面に映る月は驚くほど静かに自分たちを見つめていた。
やっとのことで岸に這い上がり、ずぶ濡れになった二人は、
しばらく呼吸を整えることでせいいっぱいだった。
「あられもないお姿ですね。」
吾郎の乱れた襟元を調えようと、
寿也は肩膝をついたまま天を仰ぐ吾郎の傍に来た。
後れ毛が濡れて張り付いた寿也の頬が、月明かりに白く浮かぶ。
「無茶をしすぎです。・・・もう、このような振る舞いは謹んでくださらないと・・・」
「黙れ・・俺は俺の好きなように・・・・」
「天下人なのですぞ。軽率な行動はなりませぬ。」
目線は、吾郎の着物の襟を正す手にありながら、口調は相変わらず手厳しい。
その態度に吾郎の怒りが爆発した。
寿也の手を振り払い吾郎は叫ぶ。
「ならばお前が俺の変わりに、この「上様」とやらになればいいだろう!?」
「吾が君・・・?」
投げやりな吾郎の言葉に、耳を疑った。
「寿也。何故にこのように虚しいのだ。教えてくれ寿也!!」
次の瞬間、助けを乞うような吾郎の眼差しが、寿也の胸を締め付ける。
「どうなされたというのです!?」
「この国のすべてを手中に収めたかったはずなのに・・・・。」
拳を握り締め、うつむいたままの吾郎の体が震えている。
「戦が無くなったことでぽっかりと胸に風穴ができておる。」
力無きその声は、かつて戦場を駆け抜けた鬼神のものではなく、
あてどもなく彷徨う孤独な旅人のようだった。
「俺は贅沢にも興味は無い。茶の湯をする趣味も無い。鷹狩りも、野翔けも、戦のための鍛錬でしかない。
この先、俺はどうやって生きてゆけばいいのだ。」
寿也はこの時初めて、新しい時代に自らを合わせることができない主の苦悩を知ったのだった。
いったいどれ程の時間、吾郎はたった一人で苦しんでいたというのか。
何故自分はそれに気付かなかったのか。
吾郎のために、と言いながら、吾郎を見ていなかった自分は一体何をしてきたのか・・・?
「吾が君・・・・吾が君!!申し訳ありませぬ!」
たまらなくなって寿也はその手をとった。なんと痛々しい姿なのだろう。
それはまるで、傷ついた猛獣がうずくまっているかのようだ。
「俺は・・俺は戦うために生まれてきたのか?誰かを殺さねば生きられぬ体なのか・・・?」
「それは違いまする。」
「俺の役目は・・・もう終わったのだ。」
「___吾郎殿!!」
咄嗟に寿也の口から出たのは、親しげに互いを呼び合っていた幼少時の呼び名。
「・・・寿・・?」
寿也は自分でも気付かぬうちに、声音すら変えていた。
「思いだすんだ。昔、言ったじゃないか・・・・。お父上が亡くなった時の
ことを。戦のせいで悲しむ子供は、自分だけでいい、と・・・。」
家臣という立場を超えた寿也の言葉が、吾郎の胸に響く。
寿也は自分自身にも言い聞かせていた。
なんのために、この国を一つにしたのか・・・。
「知っているよ。君が、戦に明け暮れながらも、民のことをちゃんと考えていたことを。」
「気休めを言うな。」
「時折里の村々を訪れて、親を失った幼子を慈しんでいたじゃないか!!」
「・・・・寿也・・・。お前・・・・」
吾郎の瞳の奥に、何かがゆらめく。一筋の涙とともに、荒んだ心が、
少しずつ、洗われてゆくような気がする。
寿也は再び落ちつきを取り戻した吾郎を、抱き締めるようにして言葉を続けた。
「・・・戦うことも、国を治めることも、命を守ろうとする君の生き方に変わりはないんだよ・・・」
真っ直ぐな寿也の瞳。
それは、天下取ることを誓ったあの頃と変わらない。
そして寿也の言葉に、二人で掴みたかった夢が、終わったわけではなく、
これから叶えるものであることに気付く。
吾郎は小さく、すまない、と呟く。
「謝らねばならないのは・・・・」
自分も同じだと、寿也は俯いた。
いつの間にか一人だけで歩いていた自分を心から恥じた。
誰の忠告をも聞かず、権力を手にし、思うが侭に振舞っていたことに気付く。
二人で作りたかった国は、二人だけの世界ではない。
大きなものを手にした二人は、代わりに大切なものを失いかけていた。
互いを想う気持ちという、かけがえのない絆が薄れ、
同じ場所にいながら、それぞれが孤独だった。
「寿也・・・もう一度、俺に力を貸してくれ。」
寿也は深くひざまずき、どんな時も吾郎の傍にいることを誓う。
「二度と・・・離れませぬ。」
そうだ。もう二度と、心が離れるようなことがあってはならない。
どちらともなく、二人の手が繋がった。
吾郎は勢いよくその手を引いて、寿也を抱き寄せた。
寿也は少しおどろいて、ちいさく、あ、と言う。
胸に飛び込んできた寿也の体は、川の水を浴びてすっかり冷たくなっていた。
だが、乱暴に吸い上げたその形のよい唇から流れ込む熱は、瞬時に吾郎の五感を痺れさせる。
二人は何度も唇を重ねた。
絡み合う舌とともに、寿也の腕は吾郎の首に回る。
ほどけてバラバラになってしまった糸をたぐりよせ、もう一度紡ぐように。
またたく間に、濡れた着物が剥がれ落ちた。
倒れこむ二人を、川岸の若草がやさしく受け止める。
吾郎の右手が寿也の裾を割り、すべらかな内腿を伝って、
中心へとたどり着くと、押し殺した寿也の息が漏れた。
今はただ、生涯を捧げた人のぬくもりだけを感じたかった。
やがて、感じるままに啼く寿也の体を、
ありったけの想いをこめて、吾郎は抱いた。
「・・・共に・・・生きてまいりましょうぞ・・・」
「・・ああ。」
乱れる息の下、その泣きそうな笑顔は
吾郎の心の闇を照らす。
もう一度、同じ道を歩み始めた二人を阻むものなど、何もなかった。
終章へ続く
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