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 薬師寺は看板を見上げて苦笑した。二人がたどり着いたのは、友との再会の場としてふさわしく、かつての恋人との逢瀬には切ない店だった。

「・・・またここに来ちまったな。」

「すまん。他に思いつかなかった。」

「別にいいさ。昔から知ってる店ってのは落ち着くもんだ。」

 その昔自分がみつけた小さなバーは、雑居ビルの2階にある老舗。そして、二人が<誰にも言えない恋仲>だった頃、密かに通った思い出の地だった。

 重厚な扉を開けた。ダークブラウンを基調にしたインテリアと控えめな照明に、薬師寺は懐かしそうな顔をした。
あるときは二人で肩を並べて、あるときは一人で肩を震わせて。喜びも悲しみも数え切れないほど語ってきたこの店は、その後二人が「旧知の友」となった今も、こうして時折訪れることのできる大切な場所だった。

 まだ時間が早いからだろう、店内の客はまばらだった。二人はカウンターの一番奥に並んで座る。長い年月のあいだに、スタッフの顔ぶれはすっかり変わってしまった。それでも店の内装はあまり変化がなかった。

「ここに来ると不思議な気持ちになるぜ。」

「そうだな。」

 月日は確実に流れていても、目前に並ぶ大小のボトルや、ダウンライトに照らされるグラスの輝きはかつてと同じようにそこにある。変わらぬものと無くなってしまったものが混在する空間で、薬師寺は異国の地に残る二人の友を思った。隣にいる眉村も同じなのだろう。彼もまた、肩を落とし目を伏せていた。

「あいつらとは話したのか?」

「ああ。日本に帰る前に一度、飯を食った。」

 佐藤と茂野、二人と語らった夜を思い出し、薬師寺の胸は痛む。同期のよしみで告げられた真実は薬師寺を絶句させた。過去に何度か血行障害に苦しみ、その都度復活してきた茂野だが、今回の肩の負傷は思った以上に深刻なものだった。

__なあに、来年の夏にはまたお前を三振に仕留めてやるから覚悟しとけよ?薬師寺。

__だったらちゃんとリハビリしなよ、吾郎くん。

 強がる茂野と、彼を気遣う佐藤の姿を思い出す。

「茂野の手術は上手くいったんだろう?」

 友を案ずる眉村の声が少し大きくなる。心配そうなその視線から逃げるように、薬師寺はグラスを煽った。できることなら、同じ投手である眉村に言わずに済めばいいと思っていた。しかし今、眉村は背中をこわばらせて自分の言葉を待っている。覚悟を決めるしかない。薬師寺は固く閉じた瞼を上げ、低い声で言った。

「奴はもう、投げられないかもしれない。」

 眉村が目を見開き、グラスを握り締める。そんな、とつぶやく姿を見ているのはいたたまれなかった。

「だから佐藤は・・・日本に帰らないのか。」

「はっきりとは聞いてない。でも、俺だったらそうするだろうな。」

 そこまで言ってしまってから、薬師寺は己の失言に気付き動揺した。口元に手をやりながらそっと隣を伺うと、未だに衝撃を受けているような眉村は何も気付かずに呆然としている。いくらかほっとすると、薬師寺は続けた。

「茂野はめったなことでは弱った自分を見せない。しかし佐藤相手にはいつも甘えていたように思う。たぶん、無意識だろうが。」

 優しい笑みを浮かべ、薬師寺は言った。眉村のために。自分のために。

「だから今、佐藤が茂野と一緒にいるんだと思うと、俺は何故か安心さえしたんだ。」

 せめて、佐藤寿也が傍にいるのなら。それが希望にさえ見える不思議は、あの二人が起こしてきた奇跡の数々を少なからず知るからなのか。

 薬師寺は空になったグラスを掲げてバーテンダーを呼んだ。そして、かつて深く恋焦がれ、今は静かに愛する男をそっと見つめた。






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2010年8月9日 


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